ニートミートドリア

人間の善性を取り戻す鍵はサイゼリヤにある。社会主義の果てに悪質なものが淘汰されたとき、我々はドリンクバーに向かうだろう。

人間の善性を取り戻す鍵はサイゼリヤにある。社会主義の果てに悪質なものが淘汰されたとき、我々はドリンクバーへと向かうだろう。



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論理とかいう奴が世でチヤホヤされまくっててムカつくんだが

論理ってなんだろう。

 

論理的思考が大事だというのをよく聞く。だけど、その肝心の意味がよく分からないまま20年以上生きてしまった。

分からないものは調べるしかない。ググり、goo辞書の項目を調べ、誰が書いたか分からないコラムを読んだ。その結果、真偽はともかく、一般的には以下のように考えられていることが分かった。

「論理とは客観的なもので、感情とは主観的なものである。」

 

なぜ論理的思考が持て囃されているのかというと、個の人間の考えに再現性を与えることが出来るからだ。主観的な感情に再現性を与える、つまり他の人にも想像出来るようにするのに論理は役に立つ。

例えば、泣いている男の子がいるとする。なぜ泣いているのかが分からないとき、その男の子の感情は他の人には分からない。悲しいのか、それとも嬉しいのか。ここで、「一生懸命練習していたが、男の子の所属する野球チームが試合で負けてしまった」という説明が与えられたら。多くの人は、「ああ、悲しくて泣いているのね」と納得するだろう。

論理とは、感情という坂を誰でも上り下り出来るように設計された階段のようなものである。感情が生じた張本人は勢いに任せて坂を駆け上がることが出来る。しかし、その坂は他者にとってはあまりにも急だ。論理の階段を積み上げることで、なんとか感情を理解出来るのだ。

階段を積み上げ感情に再現性を持たせる、つまり他者の感情を理解することは、人間同士の意思伝達においては非常に重要とされる。これが、論理が世間で持て囃される理由といえよう。

 

実は、大きな落とし穴がある。論理の万能性を過信し、自分の思う客観性が相手にとっても客観性があると思い込んでしまうというものだ。

 

ここから先は、私の個人的な愚痴と思って欲しい。

「絵や漫画を描いている」とか「曲を作っている」と発言すると、「目的は」と聞いてくる人がいる。

世の中には、創作活動がお金になるからだとか、承認欲求が満たされるからとか、最もらしい理由を持つ人もいるだろう。しかし、私の場合はそうではない。目的なんてなくやりたいからやってる。それだけだ。強いていえばその活動自体が目的といえる。それで納得しなそうな人には、仕方無く「楽しいからだよ」と答えている。

一歩で飛び越えられる坂と呼べないような代物に段差を付けて登りやすくしようとするのは、愚行である。論理の客観性を過信している人は、論理を必要とする段階の判断が主観的にされているのを忘れているのだ。

それでも他者の感情をとことん論理的に追求したい人は、是非自問自答してほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうしてボーリングをするんですか、どうしてボーリングをすると楽しいんですか、どうして楽しくなりたいんですか楽しくないと駄目なんですか人生において楽しいということは本当に必要なんですか、そもそもどうして生きているんですか生きていたいから生きているんですか、目的はなんですか、人類の繁栄ですか人類が繁栄することがなぜあなたにとって重要なんですか、あなたは本当に人類なんですかいやそれはどう考えても人類だろう、そうですね確かにその通り人類と言っても過言ではないかもしれません、それで人類の繁栄は本当にあなたにとって一大事件なのでしょうか、どうしてあなたはあなたなんですか、あなたがあなたであるという自覚を持っているからあなたなんだとしたらそれは主観以外の何者ではないので客観的な説明をどうぞよろしくお願いいたします、なに、免許証、確かにこの免許証には一人の人間の情報が書かれているようですがそれとあなたと何の関係があるんですか、とりあえず腹が減ったのでモスバーガーにでも行きませんか

 

人間の全ての活動は人間の本能がそうさせる。それでいいじゃん。

 

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